1997年、26歳 貯金は20,000円也。自分の生活のためだけならなんとでもなる。でも私は、どうしても発音学校をやりたい。
しかし、現実問題としてやる気や理想だけでは、どうしようもない。
今までは、S氏が恵比寿の教室での費用を払ってくれていたので、何の心配もいらなかったのだ。しかしそれは断ち切られるのだ。
最後に頼れるのは、やっぱり父親だった。
その日の夜、父の住む寮に押しかけた。「何が何でもやりたいんです。」
「経営は甘くないぞ。特に知名度もないものは。ほんとにやれるのか?」と。
当時、英会話スクールは掃いて捨てるほどあった。
しかも、発音を勉強しようなどと思う日本人は、ほとんどいなかった。
その上、「発音はネイティブから習うものであり、日本人が教えれるわけない。ネイティブと話すのがまず先だ。」とか「別にどんな発音でも通じればいいんだ。」という風潮だった。
今でこそ、あっちこっちの英会話スクールの中にも発音レッスンがあるが、当時は、まったく相手にされていなかった。
肩身の狭い思いをしていた発音だったのだ。
その発音だけに特化して学校を開くのだから、並大抵なことでない。
他人からは、ネイティブ講師を入れた英会話スクールにして、一部で発音レッスンをすればいいじゃないか、とも言われた。
しかし、私は「発音」だけにこだわった。発音ができるようになれば、自信がつき、話してみたくなり、結果的に総合英語力も必ず伸びる。そう自分の体験から感じていたからだ。
そして、私の熱意が通じたのか、やっぱりかわいい娘のわがままを聞いてくれた優しい親心からか、父は協力してくれた。…といっても、「はい会社を作ってあげたから好きにしなさい。」という甘い父ではなかった。
翌日から、父の雷は頻繁に落ちた。
私は、泣きながら、鼻を真っ赤にしながら、事業立ち上げに向け奮闘する毎日が始まった。
私の父は今どき珍しい「地震、雷、火事、おやじ」という言葉がよく似合う父だ。恐ろしく厳格な父である。
「パパ」でなく、まさに「オヤジ」。高校時代、よくその家庭環境でぐれなかったね。と番長である元クラスメートに言われたことがある。
幼少の頃から、父の機嫌の悪いときは、4つ下の妹に向かって、ジェスチャーで注意を呼びかけた。
「頭に角がある」ジェスチャーを見えないところで示し、今日は大人しくしないと雷が落ちるぞ、と教えてあげていた。
思えば、父への裏切りは、私の誕生の時だった。男だとばかり思っていたのに、女が生まれたからだ
。悲しくて病院にも来なかったらしい。
しかし、初の子供なので、かわいがってはくれたようだ。
そして私は男の子のように育てられたのだろう。
そのためか、父親譲りで、私の性格は男勝りだ。
「まゆみの性格は、父の悪いところばかり似ている。男みたい。」と母は嘆いている。父は普通の道を歩いてはいない。
風貌も普通っぽくない。
26歳で、会社勤めをしながら自営業をはじめた。
父の性格から、上司にサービス残業をしたり、おべっか使ったりして気に入られたり、など世渡り上手なことはできやしない。
上司には、平気で歯向かうし、無意味な残業はしないで5時には退社(残業なしで効率よく仕事を終らせる主義)。
だから出世街道は歩けなかった。
しかも自営業を副業にしていたので、しばらく窓際俗のように飛ばされたこともあったらしい。
大手はそうやって自主退職を待つのだろう。
しかし定年退職まで居座り、最終的には大きな仕事をしたようだ。
出世はしないが、仕事は抜群にできたそうだ。
私もこの仕事をするようになって、父のすごさは身にしみた。
あの厳格な父がいなければ、今このハミング発音スクールはないだろう。
最近、父が本を出版した。
「サラリーマンやくざ人生」と自分の一生を綴っている。
ほんとにヤクザのようだ。
幼少の頃は、ただただ「怖い親父」だったが、今は尊敬している。
父を影で支えている母も、すごいと思う。
小学生のとき、母が台所で見えないように、涙を流していた、淋しそうな耐え忍ぶ母の後ろ姿を鮮明に覚えている。
この家庭はいつ崩壊するのかと、小さいながらいろいろ考えた。
あの父と母の子でなければ、今の自分はなかったと思う。
人並みはずれたことを、26歳でやろうと決めたのは、やっぱり父母と同じ血が流れているからであろう。
思えば、「26歳」は父が会社を立ち上げた年だ。私の試練も、初めての東京での生活、ハミング立ち上げ、同じ26歳の時に始まった。
父とのやりとりで、涙が枯れてなくなるのでは、と思うぐらいに泣いて、泣いて、でも自分の夢はあきらめずにしがみついた。
そして今、こうしてハミング発音スクールという命が育っている。 1997年11月
父が協力するといってくれてから、行動が早かった。
その日のうちに九州にいる母に電話をかけ、「会社設立の手続きをしておくように」の一言。
私には、事業計画と収支計画を出すように一言。「!?」今まで、英語の勉強しかしていなかった私、経営の言葉は何ひとつ耳にしたことがなかった。
絶句する私に、「本でも買って自分で勉強しろ!」の一言。
父の性格からして、ひとつずつご丁寧に教えてくれるわけがない。
小さいときから、両親から勉強しなさい、と一度も言われたことはなかった。
これがきっと初めてだっただろう。
父の寮からの帰り、その足で本屋に立ち寄り、それっぽい本を何冊か買ってみた。
未知への世界へ足を踏み入れ、わからないことばかり。でももう後戻りはできない。
26歳、休むこともなく、毎日走りつづけた。