そして、もうひとつハミングバードを取り入れた大阪の専門学校。当初は学校の授業カリキュラムの中でハミングバードを使用しているだけなので、これまた問題にならなかったらしい。
(現在は個人向けにもクラスを持ち、「テラ発音メソッド」として学校を開いているので、うちとは変りのない状態にある。)
その他、個人的にハミングバードの教材を使っている人たちが、日本全国に数多くいたのだが、代々木ハミング発音スクールのように、発音だけに特化して営業している学校は他にはなかったようだ。そして、私たちはターゲットになっていったのだった。
総代理店は、今まで英語業界には無縁だったという企業。
「契約しました。そして総代理店になりました。」というところまで話は分かったのですが、現在学校があるわけでも、講師がいるわけでも、ノウハウがあるわけでもない状態だった。だから、話し合いでは「はい我々がフランチャイズの親です。従いなさい。」という説明に対し、「では親分として具体的に何をしてくれるのですか?」という話が続いたようだ。
そして、その問いに答えないで「従えないのであれば、ハミングバードの教材も使わず、また看板もおろしてください。」という話の繰り返しだったらしい。
細々とやってきた私たちの学校。
しかも本家の社長様からは「モデル校」としてだけの扱い。
だから、専用使用権や、本部としての契約をさせてもらったわけでもない。
(経営力も資金力もない私がただ、発音スクールをやっていきたいという気持ちだけでやっていたので、続くわけがないと思っていたようですが。)スポンサーが見つかり、本家の社長様のハミングバード日本進出の夢が叶うのであれば仕方のない話だったのでしょう。
私たちは何もできなかったのでした。
ただ、ただ、やるせない気持ちで、状況を見守ることしかできませんでした。
2日目の夜、O氏との話し合い後、夜中からまた父と主人と3人の話し合いがはじまった。
すでに丸一日24時間寝てない私たちは、頭がボーとしていた。父はやはりハミング発音スクールを継続することには反対した。「もうどうしようもない、あきらめなさい。」という父の言葉。私はこれまでのことを振り返っていた。
留学して、発音の壁にぶつかり、挫折を味わった。カタカナ英語でもなんとかなったのだろうが、自分の発する英語に自信が持てなかった。
1992年のそんな時、ロスで、ハミングバードに出会い、何を間違ったか講師になり働くようになり、私と同じような挫折感を味わった人たちとも沢山出会った。
私が発音を教えたからといって、急にペラペラしゃべれるようになったわけでもない。
ただ、単語ひとつが英語らしくなった、HELLO一言がすごく英語っぽくなった。
ほめられた。そして、しゃべることが楽しくなった。という生徒さんからの小さいけれど大きな喜びの声を聞けることが嬉しくて仕方がなかった。
留学すれば、英語もペラペラに発音もネイティブ並みになると思っている人も多いでしょう。
確かにそういう方もいるかもしれません。でも留学前に日本で、そして英語というものに触れた早い時期に、この発音をマスターできれば人生変わるのではないかと思うのです。
だからこそ、ロスでなく、日本で多くの人に伝えたいと夢を抱き上京してきた1997年。
ロスにいるときから、10年近く、発音にどっぷり漬かって頑張ってきた。
成功をおさめているわけでも、何でもない。
けれどこの小さな代々木の学校に、楽しそうに通ってきてくれる生徒さんがたくさんいる。
この生徒さんたちの笑顔を、一人また一人と思い浮かべると「なにがなんでもがんばろう!」「でも、もう限界。みなさんごめんなさい!」と気持ちが揺れ動いた。
「もう学校は閉めなさい。」との父の言葉。
どこにそんな涙があるの?というぐらい一晩中泣き続けたのでした。
この時は、結婚してまだ2ヶ月も経たない、しかもお腹には命が育っているといことが分かったばかり。
私のただ、「やりたい!辞めたくない!」というわがままに振り回される主人。主人にとっては災難だったと思います。
主人が「専業主婦をしなさい」といえば、それで話は終わりだったのだろう。
しかし、主人は「自分が一緒に頑張ります」と、言い出した。
主人の本業は英語には全く無縁。
ただ、講師育成のモニターになる機会が何度かあり、発音を少しずつ体得していく素晴らしさとそれを伝える仕事の喜びを理解してくれていた。
しかし父は、「頑張りますといっても、片手間でできるほど経営は簡単なものではない。何を馬鹿なことを。」とさらなる怒り。
結局、主人は自分でやっていた仕事を辞め、ハミング発音スクール一本でやっていくことを決心した。
(・・それでも父親は、しばらく主人の決心とその行動を許してくれなかった。『お遊びじゃないのだ』と、『本当にやっていけるのか』と、何度も主人にぶつかっていた。
そして、 1、2年後やっと会長に退き、主人が社長になることを許してくれた。)この夜の話は、明るくなる朝6時ぐらいまで続いた。
やっと1,2時間眠ることができた。
やっと眠りにつけた4時間後には、ふたたび学校でO氏と向かいあっていた。
2000年春には、総代理店が学校を開くことになっていた。
その時に、基本的に詳細は話し合いの上、傘下に入るということで長かった話し合いは幕を閉じた。
基本的に傘下に入るという方向性をつけないと、O氏はロスに帰れなかったようですが。
それから2000年春までの8ヶ月間、私達の歩むべき道を決めなければならなかった。
この3日間の苦しさと、これからの不安で涙が止まらなかった。
そんな時、一緒にがんばっていこうと多くの生徒さんたちが励ましてくれた。
応援してくれる先生、仲間や、生徒さんがたくさんいたからこそ、その後も頑張れた。
その日の夜は、お腹にいる赤ちゃんに「無理してごめんね。そしてよく頑張ったね」と謝って眠りについた。
そのときの命が今、4歳になる長女です。
妊娠中止まらなかった出血も途中で止まり、なんとか生まれてきたのですが、生まれて2.3週間後から子供に異変がおこり、2000年は育児も仕事も大変な年になったのでした。