学校を開き、教室を作っただけで、「発音矯正学校」を広める手立てはなく、お先は真っ暗。
しかし、徐々に生徒さんが生徒さんを紹介してくれて・・・という口コミで少しずつ広がっていきました。
この生徒さんの紹介というのは今でも嬉しいものです。
さらに、ひょんなことから産経新聞の取材。
「発音を重視したカリキュラムを組んだスクール。」としてかなり大きく紹介され、驚いた。
ただ、これは「取材」だったので、電話番号も載せてもらえず、今のようにHPも無かったため、宣伝効果は得られなかった。
とはいえ、その記事を見て、産経新聞社に問い合わせ、ハミング発音スクールの連絡先を聞いて問い合わせてくれた人が、思った以上にいたのはとても嬉しかった。
そしてまた、その生徒さんを通じて生徒さんが集まり、通りがかりで体験を受けレッスンを始めた生徒さんを通じて生徒さんが集まり・・・といった具合に、当時のハミング発音スクールのは、徐々に広がっていったのでした。
当時は、二十代後半の女性2人とレッスン。
輪が広がりつつあったその当時の生徒数は決して大人数ではなかったが、生徒さんはとても満足し、とても楽しんでくれていた。
私たちもレッスンを担当するのがとても楽しかった。
そしてレッスン以外の時間は、3人でよりよいレッスンをしようと試行錯誤を繰り返した。
こんな調子で私は代々木でレッスンをしながら、週2日間は大阪に泊り先生養成を続けていた。
そしてそのかたわらで、教案を作成したり、営業方法を考えたり、少しでもこの学校を皆に知ってもらう方法を模索していた。
1998年2月下旬。
嵐はまた突然やってきた。一緒に頑張ってきた先生Hさんから、突然の電話。
「子供ができたんだけど、卵巣脳腫ができて・・・ごめん。もう仕事できない。」私は絶句した。
昨日まで元気に一緒に働いていた彼女が明日からもう来ない・・・。
旦那様も働くことに反対し始めたこともあり、もう何も言えなかった。
そして、後に残されたのは、筑波から3時間もかけて通っていた講師Fさんと私の2人。
2人で頑張ろうと決めた。
しかし、Hさんの電話から1週間後、Fさんから「主人が仙台転勤が決まったの。1ヶ月後。ごめん。」との話。
3月末には、私は1人になってしまう。どうしよう・・・。
そんな不安をよそに、相変わらず父親からは、「年度計画をだしなさい。」との課題が。
さあ年度計画って何?落ち込んでいる時間もなく、また本屋通い。
本を買って読んで作って、父親から却下され、またやり直す毎日。
英語しか勉強してこなかった私が、「借方、貸方、試算表、振替伝票、元帳」と難しい言葉と向き合う。
月々の経理も税理士さんにお願いすれば、簡単なこと。
でも父親の経営方針は自分でやるべきだと譲らない。
「経営の勉強、しとけばよかった・・・」と悔やんでも仕方が無かった。
経営も不安いっぱいの上、一緒に手伝ってくれている先生もいなくなってしまう
けれど、ハミング発音スクールという命はもう生まれ育っている。
平日は、レッスンをこなし、夜や週末は父の寮に行き、経理の勉強。歯を食いしばって頑張った。
1998年4月。私は一人になった。するべきことは、講師育成。
大阪では、3月末で講師育成が終ったため、数名の先生が巣立っていった。
(その後も何度かレッスンを見に行ったり、合同研修を行ったりした。先生の数も増え、こうして私の子供、孫、ひい孫が育っていることは嬉しいことです。)
そして東京でも、講師育成を頑張らなくては。
ちょうど恵比寿で担当していたときからの生徒さん2人が、先生になりたいと興味を持っていたので早速トレーニング開始。
1人は、6ヶ月の子供持ちのお母さん。
もう1人は、専業主婦の女性。
6ヶ月の赤ちゃん用の部屋を作り、私が寝かしつけたりしながら、彼女のレッスンを行ったりの毎日を送った。
一方、代々木で開校してから5ヶ月の経営状態は最悪。
親から借りた資金500万円は尽きていた。
開業費が意外にかかりその経営状態を見て、経営者である父の目には、そろそろ引き際だと判断された。
「もう諦めれば。」の一言。
とにかく、悲しかった。
実際、銀行からお金を借りてスタートしたわけではない(銀行にお願いしても相手にはしてくれないだろう)、親にお願いして始めたもののだ。
どうしよう・・と思っていた矢先のこと。、
父からの一言以来、不思議なことに固定費、人件費もなんとか払え、1998年は乗り切ることができた。
小さな学校だったが、生徒さんたちに恵まれとても親身になってくれた。
「友達にここのこと良いよっていったからね。」
「今度は○〇さんって人を連れてくるからね。」と、多くの生徒さんたちが応援してくれたのでした。