1997年 10月1日。ロスの社長様から国際電話。
大阪の大手専門学校の方が興味をもっていて、恵比寿のレッスンを見学したい。そして話を聞くようにとの電話だった。
ロスの社長様の本業であるコンピューター関係で、その大阪の専門学校の理事長さんとは一緒に仕事をされているらしい。
その理事長様が部下に「東京に行ってこい。ハミングバードを導入しろ!」
と命令されたのでしょう。
そしてO氏がやってきました。
おひげもじゃもじゃですごく優しそうな人。
実際の生徒さんと一緒に体験レッスンを一生懸命に受けて、感動してくれた。
その後、私とO氏が直接今後の話を進めていくことになった。大阪で、新しく外語専門学校を開校するので、その中のカリキュラムで発音クラスをいれていきたいということだった。
私もO氏の話に共感し、大阪まで行こうと思えた。
彼は、「不可能が可能になることを教えたい。やる気がチャレンジを導き、結果、人生がかわる。それを伝えていきたい。 」と彼が語った新しい学校へ思いは、私が思い描く理想の学校理念そのものでした。
その後、1ヶ月ほどかけて、大阪という離れた場所の学校に対し、私に何ができるのかをいろいろ考えては、提案書を作り、話し合いを何度も試みた。
はじめて作った提案書は、たった数枚だったがずいぶん苦戦したのを覚えている。
提案書に赤ペンを入れる先生は、単身赴任で近くに住んでいる私の父親。
父の会社が終わる時間を見計らって、会社の寮に侵入。
「だめだ!わかりづらい!」の一言で何度も却下。
「プレゼンとはこういうものだ」と、くどくど教えられた。そういう時は親子ではない。鬼上司だ。
1997年11月、大阪へいよいよ講師育成のため、出張することが決定。
翌年、4月から始まる外語専門学校の授業に取り入れるため、3月までに講師を育成しなければいけない。
その年7回大阪へ行き、1日中レッスンをする。
翌年も7、8回出向き、教えるためのトレーニングを行う。
その後は、フォローで何度か大阪に出向くということで、話が決まった。
初めての交渉、そして交渉成立。嬉しかった。
一番ホクホクだったのはロスの社長様。
日本での展開が夢だったので、大阪にもハミングバードができるということでたいそう喜んだ。
そして、週に1回、新幹線通勤が始まった。
緊張しながら、学校関係者と対面。大阪の方は、本当に親切な方ばかりで、丁重に対応してくださった。
大阪では、3人の方を育成することになった。大阪に通うのは楽しかった。
皆、興味を示してくれ、一生懸命に私のレッスンを受けてくれ、また私自身も多くのことを学ばせて頂いた。
こういう人達とずっと働いていきたいなと、思っていたが、幸せなことばかりではなかった。
東京でのハミングは大変な状況になっていた。
10月中旬、恵比寿校を立ち上げた、S氏が突然「資金も底をついたので10月末をもって、私はこの仕事から手をひきます。今いる生徒さんには私から謝ります。」との置手紙。絶句。
これからどうしよう…。私の東京生活は始まったばかりなのに・・・。