その後、S氏は東京に戻り、恵比寿に 発音矯正学校をオープンした。 名前は違ったものの ハミングバードメソッドを使った初めての教室。
先生は、私が教えていた生徒Hさん。
彼女は講師経験はなかったものの、同じく発音に魅了されていたので、東京への帰国が同時期だったこともありS氏と一緒に頑張ることにしたらしい。
1996年ごろのことだ。
私はハミングバードの社長様から、
まず知り合いからレッスンをスタートしたらしい。と、近況は聞いていた。
そして、しばらくして 先生になっているHさん、S氏から個人的に直接私に連絡がくるようになった。
Hさんは、教える経験がなかったため分からないことだらけだったのだろう。
私に分かることは、できるだけのことを伝えた。
S氏からは、やはり東京に来て手伝って欲しいというオファー。
私は生まれも育ちも福岡北九州の「ど田舎」。
田畑、山、海に囲まれて21歳まで過ごし、一人暮らしの夢は、留学で叶った。
「東京」といえば、ディズニーランドぐらいしか知らないし、自分とは無縁な場所だと思っていた。
帰国後も地元に帰るつもりだったので、東京で生活なんて考えもしていなかったのだった。
卒業してまもなく、「よし!すぐにでも帰国しよう。そして塾で働きながらでも、ハミングバードをやっていく方法を見つけよう。」と決心。
とても良くしてくれていたハミングバードの社長様。
そしてチーフであるLuna。
留まるように何度も声をかけてくれた。ビザも手配し、専任講師になるようにも誘ってくれた。
「あと1年でもいいから一緒にやってくれないか。」といわれたときには、さすがに悩んだ。
けれど、私の性格からして、今帰らずここに留まれば、一生帰らずにロスで過ごすことになるだろう。
そして、夏には帰国を決心。実家福岡に戻り、塾の講師をしながら、ハミングバードを始める方法を探そうと決めた。
それならば、と社長様から「東京でハミングバードをやっているS氏を手伝って欲しい。スポンサーを探すのに、ちゃんとしたモデル校の存在が必要だ。」と頼まれた。
現在S氏は、本業が忙しくハミングバードは2の次になっている状態という。東京か・・・と悩んだ。
福岡北九州のど田舎で育った私。家の周りは、田畑、海、畑。高校は船に乗って通うというぐらい田舎で育った私が東京で生活できるのだろうか?不安はつのった。
しかし、幸いにして、父親がちょうど単身赴任で東京にいた。また親戚がいた。そして 2人を頼って上京を決意。
こうして私は1997年7月
5年近くいたロスを後にし、不安と期待を胸に飛行機に乗った。
一番、名残り惜しかったのは、慕って通ってきてくれた生徒さんたち。
70人近くの生徒さん全員に、直筆のカードを渡した。東京にきた時には、是非ご連絡ください、と。今も忘れたころに、その頃の生徒さんから連絡がある。嬉しい限りです。